チベットの周縁部の旅

「どうしてシッキムへいったの?」「どうしてそんなとこ行こうと思ったの?」というレスポンスを実家からも仲間内からも受けてしまい、「いや本当は中国のチベット自治区に行きたいんだけど、なかなか行きづらくて…」という話をしたのだけれど、いまいちその意図が伝わらないみたいなので(実家の反応に至っては「ちょっと頭おかしくなったんじゃないの?」くらいの勢いだった…)ちょっと書いときます。といってもこんなところに書いても、ただの書き散らしにしかならないけど。

実は学生の時から、チャリでチベットに行きたいという気持ちはかなり強かった。チベットは日本では政治的・宗教的な側面で取り上げられることが多いのだけれど、そのどちらも自分には特に関心がなかったし、基本的にそれは今も変わらない。多分、学生の頃に出た安東浩正さんの「チベットの白き道」という本の影響が大きかったのかもしれない。1999年に出た本で、安東さんが中国のチベット自治区を自転車で縦横無尽に駆け抜けるという内容。本に載っている写真の一枚一枚が見たこともない景色の写真ばかりで、学生の時の自分は度肝を抜かれた(ケチな学生だったから買わなかったけど)。抜けるような青い空、その空の下で幾重にも折れながら登っていく峠道、空気も薄くて信じられないような過酷な環境の中でこんな景色があるということを初めて知り、いつかはこういう旅ができればなあと夢に抱くようになった。けれどもチベット旅行は自転車があろうとなかろうと、やれパーミットだ、やれ検問だとか、いろんな問題があるらしく、ヘタレ学生の自分には単に憧れの的でしかなかった。今思えば無理くりでも行けばよかったのに。

チベットの白き道―冬期チベット高原単独自転車横断6500キロ

チベットの白き道―冬期チベット高原単独自転車横断6500キロ

確か社会人4年目で社外出向となって信じられない激務になったころ、仕事でどうしようもない失敗をたびたび起こしていて、ちょっとこのまんまではまずいと思い、行き帰りの電車移動で猛烈な勢いで本を読みはじめた。けれどなぜか全く仕事とは関係のない本ばかり。自分でもその頃の自分の行動の意味がよく分からない。仕事の本を読まないと意味がないのに、そのころの自分はどうして少しもそう思わなかったのだろう。

その頃読んだ本の一つに、小林尚礼さんの「梅里雪山―十七人の友を探して」という本があった。雲南の北の奥地にそびえる梅里雪山。小林さんは麓の村に泊まりながら、かつての雪崩事故で遭難した仲間の遺体探しをし続け、その際の村人との温かい交流を描いた本だった。 梅里雪山のあるあたりは、あと少しでチベット自治区というところ。梅里雪山はチベット人にとっては聖なる山で、山の頂上を目指すのではなく、山の回りを時計回りに一周(コルラ)することでご利益を得ようとする。小林さん自身も梅里雪山のコルラをしていて、コルラの道すがら出会った人との触れ合いも本の中では細かく描写されている。挿入されている写真もとてもきれいで、いつか必ずこういうところに行ければと思ってた。

↓ 今は文庫で手に入りやすくなったみたい。

そんな中、たまたま会社の上司が中国人で、彼の薦めもあって2006年のGWに雲南北部を旅することになった。初めての中国。しかも何の自信があったのかチャリも持参しての旅だった。雲南の人達は中国語もろくに話せない自分のような日本人に対してもとても優しく、そんな優しさに泣きそうなくらい感動してしまった。「部屋の鍵をください」と言ったら包丁持ってきてキーホルダーを破壊して笑顔で鍵をくれた宿のおばちゃん。「お茶飲んでいけ」と小一時間分からない言葉で、亡くなった旦那さんの写真の前で語り続けてくれたナシ族のおばあちゃん。雲南の人達はみんな素朴で、その温かみは小林さんの本で出てくる人達が醸し出す温かみそのままのような気がした。

↓ 哈巴雪山の麓の村。素晴らしい景色だった。

最初の予定では自転車で麗江から白水台を回って香格里拉(シャングリラ)までいってバスで昆明まで帰るつもりだったのだけど、辛うじて1日だけ余ったので、思いつきで香格里拉から梅里雪山のある徳欽までのバスにのって強行日程で梅里雪山を見ることになった。小林さんの本に書かれていた梅里雪山。その頂上は残念ながら雲に隠れてたけど、予定していなかった梅里雪山に出会えた感動はひとしおだった。香格里拉から徳欽のあたりは、雲南省といっても実はチベット人達がたくさん住むエリア。徳欽の食堂で女の子達がチベット語で会話しているのを聞いたりしただけで、「今のそれはチベット語?」とわざわざ確認して一人勝手に感動しては、女の子達にぽかーんとされたりしていた。

↓ 梅里雪山。頂上は雲がかかってみえなかった。

いつかは「本丸」のチベット自治区へ。できればラサからカトマンズまでチャリ単独で。旅から戻ってその思いはますます強くなったのだけれど、チベット自治区の旅行はやはり様々な壁があってヘタレな自分には遠いところ。でも雲南北部にチベット族が多く住んでいたように、チベット族の住む地域(あるいはチベット仏教の栄えるところ)は中国のチベット自治区に限らない。中国の青海・四川の一部、北インド・ラダック、北東インドのシッキム、その隣のブータンなどは現在でもチベット文化の栄える「チベットエリア」と呼べる地域で、これらのゾーンは(ブータンを除けば)許可がいらないか、許可が必要でも比較的簡単に訪れることができる。中国のチベット自治区が無理ならその周りを旅すればいいや、ヘタレな自分でもOKでしょ、というわけで4年前くらいからこれらのゾーンをメインに旅をしてきた。2008年には北インドのラダック地方、2009年には四川省青海省のカム・アムド地域、そして今回2012年のインド・シッキム。気が付けば旅行人ガイド「チベット」の半分を旅していた。

↓ ラダック。荒野の真ん中では給水もできない。

と、ここまできて思うのは、チベット族あるいはチベット仏教の息づく地域というのは、安東さんの本で見たような「青い空のもと、強烈な日差しの照りつける漠々とした荒野」というようなところ(北インドのラダックがそんな感じの場所)もあれば、カム・アムドのような草原地帯や、あるいはシッキムのような日本とほとんど変わらない植生のある山岳地帯などがあって、そこに住む人の文化も食べ物も様々で、本当に色々な顔があるということを強く実感する。シッキムに至っては、住んでいるのはネパール系の人達で、話されているのはネパール語だったりする。そういう違いはあるけれど、どんな場所に住む人達も、中国のチベット族が置かれている政治的に過酷な状況をみんな一様に心配していて、そういう主張に共感するにせよしないにせよ、彼らの強いアイデンティティも実感したし、チベットという「国」を感じた。このあたりは、国としての境界も、民族としての境界も、かなり明確に線引きされている日本人からはなかなか理解しづらいところで、そういうものを時間をかけて感じ取れたのは収穫かもしれない。

ぐるりと周縁部の旅はしたのだけれど、本丸のチベット自治区にはいまだにいけないまま。「ここから鉄道に乗りさえすれば…」「その先の橋を渡れば…」「ここからバスに乗れば…」、もうそこがチベット自治区というところまで何度もいった。でもそこ止まり。北京オリンピックの2008年にチベット騒乱が起きて以降は、チベット自治区内の旅行(特にチャリ旅行を含む自由旅行)は以前にもまして厳しくなっているらしい。それでも強制退去となるのを覚悟で果敢にチャリでトライしている図太いメンツや、「強制退去されたけど、無事に帰ってきたよ!」と自己申告する輩も数多くいるのを見ると、なんとなく「自分もひょっとしたら行けるかな」とか思えてくる。青蔵鉄道を使うパックツアーで行けばラサのあたりにはあっさり入れて観光自体は普通にできるけど、それをやったら自分としては負けかなぁと。やっぱりチャリで行きたい…。

というわけで、ラダックやシッキムにチャリで行ったのは、そういうチベットに対する強烈な憧れみたいなのを豪快に社会人のこんな年齢までひっぱり続けちゃったからで、自分でも「もうええかげんにせぇ!」という雰囲気はさすがに否定できないわけです。そろそろ限界…。いま学生のチャリダーには、国際事情も変わらないうちに行けるところをどんどん行った方がいいですよ、事情変わっていけなくなるとマジで後悔しますから、と上から目線でアドバイスしておきます。はい。

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